- アフリカのビジネス環境
アフリカにある、日本企業が生きのびるヒント
成熟した日本企業と若いアフリカ
ケニアで第6回アフリカ開発会議(TICAD VI)が開催されました。アフリカ大陸でははじめての開催です。日本企業のアフリカビジネスが期待されて久しいですが、障壁となっているのは、実際はなにでしょうか。
日本から4000人がケニアに
かつてないほどの数の日本人がナイロビにいた2日間でした。
8月27日、28日にケニアで行われた第6回アフリカ開発会議(TICAD VI)が閉幕しました。この会議にあわせ、4,000人が日本からケニアへ渡航したと言われています。2015年におけるケニアへの年間渡航者数は6,485人だったので、その6割に当たる人数が集中的に訪れたことになります。
ケニアに住む日本人の数は800人。400万人都市であるナイロビで日本人を偶然見かけることは少なく、アジア人といえば中国人です。期間中は不思議な気分でした。
1993年から定期的に開催されているTICADは、その名が表す通り開発援助に関わる政策対話の場で、日本政府とアフリカ各国政府および国連や世銀といった国際開発機関が主要なアクターです。
しかし、2000年代以降の「ビジネスによる開発援助」の流れに乗って、最近のTICADでは民間企業の動きにスポットライトを当てるようになってきました。
6回目を迎えた今回は、メイン会場内に96の日本企業・団体がブースを持つ展示会場が設けられ、75の日本を代表する大企業の社長、会長、役員や経団連会長などが安倍首相に同行しました。
最終日には、日本企業16社がアフリカ側と55のビジネスに関する覚書を結んでいます。
アフリカビジネスパートナーズも展示会場にブースを持ち、いくつかのビジネス関連の会議に参加しました。
アフリカビジネスが盛んだった戦後
日本は、アフリカにおいて存在は大きくはありません。そのせいか、ビジネスサイドの観点から見ると、TICADで議論されたりメディアで報道された「日本企業によるアフリカビジネス」は、一貫して大雑把なイメージや、不十分な現状認識による印象論に留まっているように思われました。
たとえば、初日に行われた「日本・アフリカビジネスカンファレンス」において、マッキンゼーやPwCのパネラーは「アフリカにはポテンシャルがあることをもっと日本は知るべきだ」という発言に終始しました。
彼らの議論で、アフリカで事業を行う日本企業として挙げられたのはトヨタ、コマツ程度で、日本企業が現在アフリカで何をしているのか、どういう産業に強みがあるのかといった現状認識に基づいた話は聞かれませんでした。
日本企業がアフリカでなにを行っているかを把握せず、「日本企業はアフリカのチャンスに気づいておらず、何もしていない」というよくある印象以外の知識を持ち合わせていなかったようでした。
フィナンシャル・タイムズは、TICADに関連した記事において「日本企業のアフリカでの事業はインフラと消費財に限定されている」と書いています。
「アフリカのThe Economist」との評判高いJeune Afrique誌は、日本の政府関係者の話として、「アフリカは日本から距離が遠く、治安などのリスクがある」ため日本企業はアフリカで事業をしたがらないとした上で、「日本企業はもっと野心をもって挑戦すべきだ」と発破をかけています。
これらを見聞きして私がまず想起したのは、これまで会った、50年代~70年代にアフリカにいた日本企業の人たちです。今よりずっと多くの日本企業・日本人がアフリカでビジネスをしていたことを、よく話してくれました。
ラジオや家電といったシンプルな電化製品をかばんに詰め単独で売り歩いた人。日本の工場で作った、生地やマットといった労働集約的な製品をアフリカに大量に輸出販売していた人。テレックスの時代だったから会社には何も報告せず、勝手にアフリカの国々を出張し政治家と渡りあった人。アフリカに工場を作り奮闘していた人。若い人が多く駐在していたので、各社の日本人が集まって毎晩飲み歩いたこと……。
アフリカで事業を行っていた、当時の日本企業のリストを見たことがあります。そこには大企業の名前が多くありました。けれども時代背景を考えると、いまは押しも押されぬ大企業も、50年代~60年代はまだ規模の小さな、成長過程にある企業だったわけです。
リストを眺めると、第二次世界大戦が終わり、新たな事業を立ち上げ、高度経済成長期に至る過程において、サバイブするためになんとか海外で売上を上げようともがいていた日本企業の姿が浮かびます。
当時のアフリカはいま以上に不安定でした。現在の日本の大企業も、その頃はまだ若く、野心的で、挑戦心に富んだ、ベンチャーマインドをもった企業であったのだと思い至ります。
日本の成熟化に伴い下火に
現在、日本企業があまり近寄りたがらないナイジェリアは、当時も治安が良かったわけではないですが、在ナイジェリアの日本人数は優に1,000人は超えていたと聞きます。今は162人(2015年)です。
当時は日本とアフリカの産業水準の乖離も大きくなく、いま中国が行っているような、自国の安価な労働力で生産したものをそのままアフリカに持ってきて販売するようなビジネス展開が可能だったのでしょう。
その後、日本企業はアフリカから撤退していきます。背景には、アフリカ側の政情不安や日本のODA予算の減少のみならず、日本の産業構造が軽工業から重工業、ハイテク産業へと転換してきた流れがあります。
そしてまた、「なんとかどこでも外に行って稼いでこなければサバイブできない、総ベンチャー企業」の状況から、年数を経て拡大より効率にシフトしだした成熟企業が、アフリカのようにボラティリティが高い地域ではなく、効率的な事業運営が可能な日本などの組織化されたサプライチェーンを持つ成熟した市場において、差別化を競う状況へと移行していったことも理由ではないかと思っています。
そう、つまり日本企業は成熟し、歳をとったのです。
ケニアのビジネス紙、ビジネスデイリーは、「日本は、中国やインドと違って、恩着せがましいヨーロッパの官僚めいたところがある。中国やインドは早くからアフリカを戦略的に重要であることに気づいており、安い商品を売り歩くだけでなく、アフリカが何を求めているかがわかっている」と書いていましたが、この記事が50年代や60年代に書かれていたら、日本こそ安い商品を売り歩き、多額のODAをもってアフリカで積極的にインフラ整備を行う国として扱われていたでしょう。
日本はパネラーやメディアが語ったように「アフリカのビジネス機会に気づいていない」のでなく、戦後のある時期は今よりも積極的にアフリカで事業を行っていたものの、次第に離れていったという方が正確です。90年代以降は日本の産業や日本企業が成熟化する一方で、アフリカの不確実性が高まっていったというすれ違いがあったと思います。
なにも日本企業は無知だからアフリカに関心を持っていないわけではなく、治安や距離は直接的な理由ではありません。昔も今もアフリカと日本の間の地理的距離は変わっていません。
意外と実績を上げている日本企業
日本がGDPの規模に比して、アメリカや中国、ヨーロッパ各国よりもアフリカへの投資が少ないのは間違いありません。その一方で、人々が想像しているほど、アフリカで事業を行っていないわけでもありません。
成熟化を経て、グローバル企業への道を歩き始めている企業は、とっくにアフリカで事業を開始しています。世界地図を広げてみたときに、アフリカだけを避けて通る選択肢はなく、特に人口が競争要因となる事業においてはアフリカでの競争に勝たずにグローバルトップグループに入るのは不可能だからです。
トヨタを始めとする自動車・商用車メーカーはもとより、JTや関西ペイント、味の素、NECといった企業はアフリカでの事業展開を自社の戦略の中で所与のものとしています。
また、産業機械・機器、パーツといった領域では、よく日本企業の製品を見かけます。私はアフリカ各国の様々な工場に日々足を運んでいますが、縫製工場では日本の織り機やミシンに、食品工場では日本製の機械やパーツ、オートメーション機器や検査機器に対面します。
アフリカでも、事業継続性や品質の担保、効率が大事な生産現場では、価格が高くとも日本企業の製品が求められるため、信頼性や丈夫さ、効率性に大きな優位性がある日本の産業資機材には強みがあります。
このような領域に強いのは何も大企業に限らないため、中小企業によるいわゆる「ニッチトップ」の企業の製品もアフリカに入っています。「日本企業のアフリカでの事業はインフラと消費財に限定されている」とするのは正確ではありません。
TICADを巡っては日本のメディアにおいても、豊田通商、住友化学、カネカといった、前回2013年のTICADでも取り上げられた、アフリカビジネスにおいてはおなじみである企業の情報で構成された記事が多く見られました。
商社やインフラなど大規模プロジェクト以外で、アフリカにおいて数百億円以上の規模で売上を上げている企業は日本に何社もあります。しかし、その存在はあまり気づかれていないようです。
企業の事業展開に関しては公開できない情報も多いですが、公開可能なものについては、当社アフリカビジネスパートナーズがアフリカ開発銀行アジア代表事務所と作成している「 アフリカビジネスに関わる日本企業リスト」にまとめています。60年代に作られたリストから半世紀経った、今の日本企業のアフリカにおける姿です。
成熟した日本企業が抱える課題
ところで、成熟した日本企業は、品質や効率性といった磨き上げた強みで勝負することで、これからも生きのびていくのでしょうか。
これはアフリカでの事業のみに関わることでなく、日本企業の経営上の課題であり、私が今回のTICADを通してもっとも心に刻みつけられた問いであり、すでにアフリカで事業を開始している日本企業の模索を見て感じたものです。
日本政府は官民連携の試みに熱心で、TICADにおいても華やかな発表や要人面談などを多く企業に用意しました。しかし、そのような場面とは裏腹に、十分なパフォーマンスを上げられておらず、これからアフリカビジネスをどう経営していくのか、悩みの渦中にある企業が多くあります。
その原因は主として、若い市場であるアフリカと、成熟した日本企業の間のすれ違いに発しています。
たとえば、アフリカで消費財を売るならば、アフリカのマーケットにあった質と価格の商品を、物量作戦で売り歩くことが必要です。人口は確実に増え、人々はお金を持つようになり、消費意欲は高まっていますが、効率的なビジネスシステムに欠けているため、利益がついてくるのは後です。
味の素が1991年に開始したナイジェリアでの調味料販売事業において、売上が100億円を超えて利益が出るのにかかった年数は20年。途上国に強いYKKは、1つの国で利益を上げるまでの期間を概ね10年と見込んでいるそうです。
予想外のパフォーマンスに影響を与えるできごとや、計画に対する実行の遅れは必ず発生し、予実は大きくぶれます。その場その場の対応をこなしながら、突発的に訪れるチャンスをクイックに掴み、一方で10年先を見据えたしっかりした自社の戦略を持つ、Long view, quick responseが必要です。
言葉にすれば当たり前で、どの企業でも総論としては同意していただけると思いますが、そのために実際に投資を割けるか、リスクに耐えられるかというと、各論反対となります。このようなやり方はベンチャー的であり、成熟した企業の成熟した市場での経験と、感覚があわないのです。
アフリカにおける外資企業は、ネスレやユニリーバのような新興国市場の手練であるヨーロッパの企業や、中国やインド、トルコなどの若く開拓心に富んだ国の企業、豊富な資金力で即決していく中東の企業、アメリカ西海岸などからきたスタートアップなどで構成されています。
スピードに長け、合理的に判断し、迷うことなく投資を決め、貪欲に売上を取りに行く彼らの「若い」やり口と、現在の一般的な日本企業のやり方には乖離があると言わざるを得ません。
JETROの平野氏は、TICAD前のインタビューの中で「 アフリカでの日本企業のプレゼンスの低さは、アフリカの問題と言うより日本企業の問題」と論破されました。
いまはアフリカビジネスに対して、官による資金的・非資金的支援が手厚くありますが、支援がむしろ、企業がアフリカ事業を自社の経営課題として明確に意思決定することを遅らせ、藪蛇となっていることもあります。
アフリカは若返りの薬
人間だけでなく、どのような企業も年月に従い歳を取りますが、生きのびていくためには、新陳代謝が行われなければなりません。新しい技術や新しい考えによる新しい事業を取り込んで、新しい人材や新しい市場を獲得することで若返り、企業の価値を継続させていくのです。
TICADの前に「 アフリカビジネス、6つの誤解」という記事を書きました。この記事では、関西ペイントが、日本の自動車用塗料の国内リーディング企業から、世界の建築用塗料という新しい市場で戦えるグローバル企業へと生まれ変わるにあたって、アフリカでの企業買収が組織に影響を与えた事例を取り上げました。
インド、中東、アフリカと買収を続けるうちに、社内における海外市場の捉え方、海外子会社とのつきあい方、何をベストプラクティスとするかの価値観が変わってきたそうです。関西ペイントにとっては、アフリカ(を始めとするアジア以外の異文化)市場が、企業に新陳代謝をもたらしました。
日本が先進国に分類されるようになってから、まだ1世紀も経っていないのに、我々はいつからこんなにお年寄りになってしまったのでしょうか。
成熟した日本企業にとっては、アフリカで事業を行うこと自体が、リ・ラーニングと新陳代謝をもたらす若返りの薬となるのではないでしょうか。アフリカのような市場で事業を行う経験を持つことそのものが、日本企業にとっての新陳代謝、生きのびるための生存戦略になると考えています。
(この記事は、2016年9月12日にNewsPicksに寄稿した記事の再掲です)
※引用される場合には、「アフリカビジネスパートナーズ」との出所の表記と引用におけるルールの遵守をお願いいたします。